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ベートーベンもシューベルトも梅毒だった【書評】性病の世界史:性病・性感染症の知識と歴史をさっと学べる文庫本

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『性病の世界史』

性病,より正確には「性行為によって感染する感染症=性感染症」には2種類ある.

1つは細菌性の梅毒,淋菌,クラミジア,もう1つはウイルス性の性器ヘルペス,尖圭コンジローマ,HIVなど[1].  

ちなみにクラミジアに関しては衝撃的なデータがある.

某県で実施された尿検査の結果,クラミジア陽性は性経験有り4年制大学・専修職業学校生(n=735)で8.3%,同じく性経験有り高校生では女子(n=1270)13.1%・男子(n=827)6.7%.しかも「女子では,5人以上のパートナー数では3人に一人が感染していた(32.7%)」[1].

こんな話を聞けばいやでも性感染症について知っておきたくなるというもの.  

そう思った方には性感染症の基礎知識とヨーロッパにおける梅毒流行の歴史について詳細に書かれている『性病の世界史』をぜひ読んで欲しい.


この本の第1章は性感染症についての基礎知識を扱っている.本書の対象となる性病は主に梅毒である.


厚労省のデータによれば梅毒報告数は年々増えており,特に平成28年は平成27年の1.6倍に増加,淋菌感染症報告数は漸減傾向がみられるが,それでも平成28年で8,298件である[2].

梅毒,淋菌その他の性感染症についても,その症状や治療法の知識が乏しい人は少なくないのではなかろうか?(筆者もそうだった)

第1章で性感染症についての知識をひととおり仕入れたら,時計の針を500年ばかり巻き戻そう.これらの性感染症は,人の意志とは無関係に(人同士にあれこれ関係があったから広まったのだけれど)ある地域である出来事を境に蔓延したことが歴史上明らかになっており,その様子が第2章でつまびらかにされる.

梅毒にむしばまれたヨーロッパ

中世ヨーロッパの大きな出来事の一つはコロンブスによる新大陸発見である.しかしながら,コロンブスたちが新大陸から持ち帰ったものはジャガイモや煙草やオウムや金塊だけではなかった.梅毒をも持ち帰ってきたのだ.

1493年3月15日,コロンブスの船団がスペインのパロス港に帰り着いたときには,すでに船員たちの何人かは梅毒におかされていた.コロンブスは部下たちとともにまずはじめセビリヤに行き,それから海路バルセロナにむかった.甲板の上で長い禁欲生活を強いられていた船乗りたちは,港に着くやなにはともあれ娼家に駆け込んだ.ほどなくして最初の発病者があらわれた.

なお,コロンブスが梅毒を持ち帰った説を支持しない説があることについても著者は第二章で検討している.

梅毒がヨーロッパに広まった最初の原因は,新世界への航海から無事もどってきた船乗りたちが傭兵としてイタリア戦争をはじめとしたヨーロッパ各地で繰り広げられた戦争に参加したためという.

また,古代からさほど進歩したとはいえない中世ヨーロッパの性風俗も梅毒が拡散した温床になっている.特に本来は清潔を保つための浴場が欲情の場に変貌したことが大きな要因、らしい.

これだけでもさもありなんだが、性の放蕩に明け暮れていたのは庶民や貴族だけではない.教会の僧侶や修道女までもが,というより修道院は「むしろ悪の巣窟」であり「あらんかぎりの淫行がおこなわれていた」ことを,さらにはローマ教皇が自ら手本であるかのように梅毒に冒されていたであろうことを著者は指摘している.

ここまでくれば王様や文化人が登場しないはずがない.第2章で梅毒に冒されたとされる主な著名人をあげてみよう.

教皇ユリウス2世
レオ10世
アレクサンドル6世
チェザレ・ボルジア
ルクレチア・ボルジア
フランス王フランソア1世
イギリス王ヘンリー8世とその妻キャサリンおよび生き残った唯一の子メアリー
ロシア皇帝イワン4世
ピョートル大帝
デンマーク王クリスティアン7世
ボードレール
ベートーベン
ゴーギャン
マネ
モーパッサン
ニーチェ
シューベルト
スメタナ
スウィフト
ハイネ
ゲーテ
などなど

文献で病気や奇行が残されている歴史上の人物はすべからくみな斬られまくっている.今となっては彼らが梅毒を患っていたのか証明のしようがないけれど根拠のない話とは思えない.


例えばベートーベン

ベートーベンが難聴だったことはつとに有名だが,聴覚障害は神経梅毒の一症状とのことなので彼が梅毒だった可能性は高いかもしれない[3].※ベートーベンの難聴の原因はワインの飲み過ぎによる鉛中毒という説もある[4]).


そしてシューベルト
シューベルトは医師から腸チフスと診断されたとのことだが,「当時の医学水準では,感染症の診断はおろか発熱と意識障害を伴う病気はすべてチフスとか神経チフスとか言われていたので,腸チフスや発疹チフスではないと考えるほうがよさそうである」[5].シューベルトも梅毒だったのかもしれない.

治療法は確立されたけど

第3章は梅毒の治療法の歴史について,第4章では梅毒をはじめとする性病についての科学的知識の蓄積と,「社会の性病汚染」に対する不安の広がりから政治や社会生活に変化をもたらしたことについて述べている.

今でこそ梅毒は感染のメカニズムも治療法も確立している.だが15世紀から19世紀にわたる400年間にそんなものはなかった.当時は患部(場合によっては全身)に水銀を塗ること,グアヤクという熱帯の木の粉末を煎じて飲むことくらいしか治療法がなかったという.

梅毒の診断は,ドイツの細菌学者アウグスト・パウル・フォン・ワッセルマン(1866〜1925)によって確立された.しかし,治療薬の登場は1928年,アレキサンダー・フレミング(1881〜1955)によるペニシリンの発見を待たねばならなかった.なお,梅毒の特効薬サルバルサンの開発者の一人である秦佐八郎のことが訳者あとがきに記されている.

治療法が確立されたとは言っても,性感染症対策の基礎は性教育であることは今も昔も変わらない.

19世紀は富裕市民階級(ブルジョア)と労働者階級に区別されるものの,両者ともいわゆる性教育を受ける機会が子供の頃になかったという.

労働者階級の子供たちの場合は,せまいところに住んでいたために,大人たちの性行為を偶然見て知ってしまうことが多かった.また農家の子供たちは,牛や馬の交尾をじっくりと眺める機会にめぐまれていた.これにたいしてブルジョア階級の子供たちは,性の知識を授かることのない,セックスとは縁のない世界で大きくなったのである.


ブルジョアの娘たちは「身も心も無垢のまま結婚することが望ましかった」という.

だがブルジョアの息子たちは決して箱入りではなかった.それじゃ性感染症の防ぎようがない.彼らは結婚前に娼婦のところに入り浸り,初体験をすませ,性の手ほどきを受けていた.

そんな男女が結婚しても夜の相性はあまり良くなかったようだ.やがて男どもは「肉体的欲求を娼婦のもとで満た」すようになり,売春は「かつてどの時代にもなかったほどの活況を呈した」.

一方の労働者階級,特に都市における労働者にとっては,低賃金労働のため狭い粗末な住居で何人もが同居せざるをえない事情から強姦も近親相姦も,果ては売春でさえもがめずらしいことではなかったという.

また,そんな労働者に余暇などというものももあろうはずがなかった.

プロレタリアたちの生活水準はおそろしく低かった.家族全体の収入のおよそ7割を食費にあて,残りを住宅,暖房,衣料などにまわさねばならなかった.(中略)そのため労働者たちにとって,唯一お金のかからない憂さ晴らしの娯楽といえば,もうセックスしか残っていなかったのである.

かくして労働者階級に性道徳などあろうはずもなく,特に売春は貧困に陥った女性にとって唯一の生活の手段であった.

この時代,娼婦の数が急増した.それに伴い性病患者も激増した.娼婦とかかわるブルジョア男子も性病から逃れられなかった.中世の放蕩な性事情とはメカニズムを違えど,結局のところ性病が蔓延ったのだ.

しかし,世の中は性病を蔓延させたまま現代社会を迎えたわけではない.1927年にドイツで公布された性病撲滅法,ペニシリンの発見などによって性病感染者は減っていく.

おわりに:現代でもおわらない性感染症

本書の最終第5章ではエイズについて扱っている.エイズ=後天性免疫不全症候群(Acquired immune deficiency syndrome, AIDS)はHIV(ヒト免疫不全ウイルス)の免疫細胞への感染によって免疫力が低下し,AIDS指標疾患のいずれかが発症した状態をいう.[2].

冒頭で述べたとおり,日本における梅毒の患者数はここ数年増加の一途をたどっている.若年者の性器クラミジア感染も深刻と言えよう.新規HIV感染者(エイズ発症者ではないことに注意)は減少傾向にあるけれど,女性についてみれば数は少ないが増加傾向にある[7].

著者は本書をこう締めくくっている.

たしかにヨーロッパでは,80年代のはじめ医者たちが心配したほどにはエイズの蔓延は見られなかった.しかしだからといって,それは安心する理由などにはならないのである.


まさにそのとおり,まったく安心などできないまま今に至っているのだ.

なお,第5章には有名人HIV感染者2名のエピソードが収められている.

一人はアメリカの人気俳優ロック・ハドソン(と言われても実は出演映画を見た記憶がないのだが).もう一人はクイーンのフレディー・マーキュリー.気になる方は本書を手にとってみると良いだろう.


「王さまもローマ教皇も,詩人も画家も,医者も学者も,敬虔な人びともそうでない人びとも,男も女も,歴史に名をとどめた人も忘れられた人たちも,みなそれぞれ(性病で)苦しんだ」(p.9より引用,括弧はブログ管理人による).本書を教訓の書と受け止めるかどうかはあなた次第なのだ.

参考資料

[1]http://www.jase.faje.or.jp/jigyo/journal/seikyoiku_journal_201207.pdf
[2]http://www.mhlw.go.jp/topics/2005/04/tp0411-1.html
[3]作曲家の病歴2. ベートーヴェン
[4]http://pulmonary.exblog.jp/20995645/
[5]薬楽の世界へようこそ(6)衛生化学研究室 薬学部 | 新潟薬科大学
[6]後天性免疫不全症候群 - Wikipedia
[7]http://www.jfap.or.jp/enlightenment/pdf/HIV_AIDS2016.pdf

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