はじめに
今週の金曜日(2015年12月25日)からフィギュアスケート全日本大会が始まります.
今年の締めくくりの大会で,羽生選手がどんな演技をするのか楽しみです.などと普通のことを書きたいわけではありません.
書きたいのは,「羽生選手は男子フィギュアを4回転ジャンプが跳べて当たり前な競技にしてしまった」ことについてです.
4回転ジャンプが普通のジャンプに
羽生選手のNHK杯とGPファイナルでの演技を,異次元あるいは新時代と表現しているものが多く目に付きます.でも,これまでの次元と,これまでの時代と何が違うというのでしょうか?
違いは次の1点に尽きます.
羽生選手は,NHK杯とGPファイナルの演技を通して,4回転ジャンプを普通のジャンプにしたのです.言い換えれば,男子フィギュアは4回転ジャンプを跳べることが当たり前な競技になってしまったのです.
跳べることが当たり前とは,跳べることを前提にする,つまり跳んだ後に勝負が決することを意味します.
羽生選手は,4回転ジャンプをノーミスで跳び基礎点を確実に加点した上で「出来映え点(GOE)と演技構成点」を追求する競技へと,男子フィギュアスケートのレベルを昇華させたのです.
実は,その兆しは昨年のGPフィギュアからありました.フィギュアの採点方法は毎年変わるので厳密な比較には無理がありますが,それでも羽生選手の演技構成点は,2014-15GPファイナルの時点ですでに91.78点(今季98.56点)でした.今季大きく飛躍したのは,去年の15.26点から25.73点になったGOEです.月並みな表現ですが,男子フィギュアは4回転ジャンプを含めすべての要素を出来映え良くきっちり滑れる選手が勝つ競技になりました.
「一か八かの大技」だった時代の終焉
それとともに,NHK杯,そしてGPファイナルは「そもそも試合で4回転を飛ぶことが難しい,あるいは飛べても成功する確率が低い選手は国際大会レベルに達していない」という,とても残酷な事実を突きつけてしまいました.
高橋大輔選手の言葉はこの点を如実に物語っています.
日本男子フィギュア界をけん引してきた先駆者は、4回転が多用される今季に「時代が変わってきたな。もう戻れないと思います。すごい戦いになっている。進化するのは大事」と率直な感想を述べた。
高橋大輔さん、4回転多用の演技に「もう戻れない」 - フィギュア : 日刊スポーツ
高橋大輔選手の功績とすばらしい演技は誰もが記憶していることでしょう(筆者は高橋選手のマンボが今でも大好きです).でも,高橋選手にとっての4回転ジャンプは「一か八かの大技」でした.
2014年12月15日の高橋選手の引退の直後,町田選手までもが2014年12月28日に突然引退を宣言しました.当時は開いた口がふさがらないマイナス評価しかしてませんでしたが,町田選手は,もしかしたら1年もたたない未来がこうなることを予測していたのかもしれません.
少しばかり時計の針を戻します.
ソチオリンピックを振り返る
今日からまだ2年もたっていない2014年2月14日,男子フィギュアシングルのFS競技が行われました.ソチオリンピックの舞台です.
各選手の4回転ジャンプの内容を引用しました.()は(成功回数/試行回数).
<町田選手>
「最初の4回転トーループに失敗して転倒した。ただ、動揺を見せずに続く4回転トーループを決めた。」(1/2)
<フェルナンデス選手>
「冒頭の4回転トーループ、4回転サルコーから3回転トーループへのコンビネーションをしっかりと決めた。」(2/2)
<高橋選手>
「最初の4回転トーループの着地が決まらなかったが、その後は3回転ジャンプの連続を決めた。後半は3回転ルッツから3回転トーループへのコンビネーションのほか、3つの3回転ジャンプを安定して決め、笑顔でリンクを後にした。」(0/1)
<羽生選手>
「冒頭の4回転サルコーで転倒したが、続く4回転トーループはきれいに決めた。ただ、次の3回転フリップでも着地でバランスを崩し転倒。」(1/2)
<パトリック・チャン選手>
「4回転トーループから3回転トーループへのコンビネー ションを完璧に飛んだ。しかし続く4回転トーループの着地で手をついたほか、トリプルアクセルでもバランスを崩した。 」(1/2)
<デニス・テン選手についてはこちらから引用しました.>
「最初の4回転トウループはグイっと跳び上がりこらえて着氷。トリプルアクセル-3回転トゥループの連続ジャンプは危なげなく跳んだ。」(1/1)
6位以内に入賞した選手は,全員が4回転ジャンプをプログラムに取り入れていました.しかしながら,成功率は60%(6/10)でした.高橋選手はたった1つだけ予定していた4回転トーループを失敗しました.また,自分のプログラム中の4回転ジャンプをすべて成功させた選手はフェルナンデス選手一人でした.たった2年前までは4回転ジャンプは依然「一か八かの大技」だったのです.でもその時代は終わりました.
2015-16GPファイナルは時代の変わり目だった
今季のGPファイナルはこれまでの男子フィギュアの状況を一変させました.4回転ジャンプが「一か八かの大技」だった時代の幕が閉じられたのです.
GPファイナル進出全6選手がFSに複数の4回転ジャンプを組み,多くの選手が成功させました.4回転ジャンプの成功率87.5%(14/16)は,ソチオリンピックの60%(6/10)は言うに及ばず,2014年GPファイナルの成功率72.76%(8/11)をも大きく上回りました.わずか1年で,4回転ジャンプは「成功させなければならない技」から「成功させるのがほぼ当然の技」になったのです.
GOEも上がりました.ただし,これは羽生選手についてのみ該当します.羽生選手は3つの4回転ジャンプを成功させた上,そのうち2つで最高の出来映え点(GOE3点)を獲得しました.4回転ジャンプのGOEで3点の評価を得たのは羽生選手唯一人です.なお,羽生選手は,カナダ大会SPの3回転アクセルとNHK杯の3回転アクセル+2回転トウループでGOE3点を記録しています.FSの記録を一通り目を通した限りでは,ジャンプのGOEで3点というのは羽生選手以外に見当たりませんでした.
演技構成点も進歩しました.判定方法は毎年変わるので去年との比較にはあまり意味がないかもしれませんが,去年のGPファイナルで演技構成点90点以上だったのは羽生選手一人だったのが,今年は3人が95点を超えました.
これからの選手が要求されるレベルは,全ての要素で確実に上がったのです.
4回転ジャンプについてだけ見るのであれば,ボーヤン・ジン選手は圧倒的な存在です.試合ではまだ彼しか成功させていない基礎点13.6を稼げる4回転ルッツを含め(誰も成功していない4回転アクセルの基礎点は15.0,減点なしのGOEは3.6),4つの4回転ジャンプをすべて成功させています.GOE や演技構成点はまだまだ(FSのGOEはマイナスでした)なのですが,若い彼の伸びしろは計り知れません.彼も4回転ジャンプが跳べて当たり前な時代の扉を開けた一人に違いありません.
スポンサーリンク
終わりに ー恐るべきはジュニア選手ー
さらに恐るべきは,ジュニアの選手たちです.録画するのをすっかり失念していたので語る資格はありませんが,FSのプロトコルについて指摘させて頂きます.
1 Nathan CHEN 4S 4T 4T+2T
2 Dmitri ALIEV 4T 4T+2T
3 Vincent ZHOU 4S 4S
4 Sota YAMAMOTO 4T+2T
5 Daniel SAMOHIN 4T+3T 4S
6 Roman SADOVSKY 4S
失敗した選手もいたようですが,全員が4回転ジャンプを組み込んでいることは脅威です.こういう選手たちがいずれシニアに上がってきます.彼らはすでに新時代を見据えていることでしょう.残念ですが,これまで現役でふんばってきた選手たちが彼らに引導を渡されたとしても責めることはできません.
どんな競技にも時代の変わり目は訪れます.
陸上競技男子100メートル走は,ウサイン・ボルト選手が9秒70の壁を越えてしまいました.日本人では,伊東浩司選手の記録10秒00を桐生祥秀選手が追い抜く日がすぐそこまで迫っています.
記憶に新しいところでは,プロテニスの錦織圭選手は2014年全米オープンにおいて,日本人で初めてグランドスラムファイナル進出というものすごい扉をこじ開けました.
錦織選手は異次元の出来事を現実にやってのけました.グランドスラムで日本人選手がベスト8に進出することが普通になる時代もやがて来るかもしれません.
新時代とは異次元の出来事が普通になることなのです.
フィギュアでは,本田武史選手(現コーチ)が日本人4回転ジャンプ時代の幕を開けました.浅田真央選手は女子フィギュアでの3回転アクセル時代を切り開きました.高橋大輔選手は日本人の表現力を高め,4回転ジャンプの可能性を磨き続けました.
2015年は羽生選手たちによって男子フィギュアの時代が確実に変わった年です.4回転ジャンプを跳ぶことが前提である「より高難度プログラムをより高い完成度で演技すること」が要求されるようになりました.新しい時代の一つの答えとなる素晴らしい演技を全日本選手権で見ることができるでしょう.
一方,私たちは新時代がもたらすもう一つの答えを見せつけられるのかもしれません.時代に追いつけなかった選手たちの決断という現実を・・・
【追記】2017.2.19 1年前,「恐るべきは,ジュニアの選手たち」と書きました.そして2017年四大陸選手権男子シングルまであと数時間のとき,この記事に加筆したものを公開.2016年はまだジュニア選手だったネイサン・チェン選手がFS最終滑走で4回転5本を組み込んだ圧巻の超高難度プログラムを見せ,来るべき選手が来たことを実感.
一方,追われる立場となった羽生選手は演技本番中の判断(!)によって当初予定を急遽変更.3A+3Tに続き,4T+2T,そしてラストの3Aを見事に決めました.SP・FS両方で羽生選手にミスがなければ軽く320点超えだったはずですが,ともに完璧ではない演技にもかかわらず303.71点をマーク.地力の強さをこれでもかと見せつけてくれました.まさに異次元です.