乳輪のぶつぶつはモントゴメリー腺
ヒトの乳首の周囲には乳輪がある.ご存じの通り,乳輪にはぶつぶつがある.
このぶつぶつは「モントゴメリー腺」と呼ばれており,分泌物が出る.
ある研究グループが次の5つをガラススティックの先に付けた.
①他人のお母さんのモントゴメリー腺からしみだしてきた分泌液
②自分のお母さんの母乳
③牛乳
④乳製品
⑤バニラエッセンス
そして眠ってる生後3日の赤ちゃんの鼻先に置いた.
赤ちゃんはどれに反応しただろうか?
『おっぱいの進化史』
③,④,⑤は強調修飾してないことからハズレとわかるので,正答は①,②のどちらかに絞られる.
多くの方は①他人の母親の分泌液よりも,②自分の母親の母乳に惹かれるのでは?と推測したのではないだろうか?筆者はそうだった.
しかしながら,「赤ちゃんが関心をよせて口をもごもごと動かしたり,スティックの方へ顔を寄せたり,匂いをかいで息を吸い込むような行動を見せた」のは①.
なんと,赤ちゃんが惹かれたのは他人のお母さんのモントゴメリー腺分泌液だったのだ(以上,pp.83-84).
◆我々が母親の胎内から世に生まれ出て最初に吸い付く物体はおっぱい.
最初に飲む液体はもちろんおっぱいだ.
そしてモントゴメリー腺分泌液とは「新生児が乳首に吸いつくのを促すような乳腺フェロモン」(p.84)なのだ.
◆赤ちゃんは胎外の情報を何も知らずに生まれてくる(たぶん).
そんな赤ちゃんが生きていくのに欠かせないのは,おっぱい.
ヒトには,母親(もしくは母乳の出る女性)のおっぱいに赤ちゃんを導き,赤ちゃんをおっぱいに惹きつけるしくみが備わっている.
ということを,書店でたまたま見かけてタイトルがどうにも気になり,つい手にしないではいられなかった『おっぱいの進化史』で知った.
哺乳類ならおっぱいのことをもっと知るべきである
我々は授乳期を過ぎるとおっぱい本来の機能とはまったく違う,人それぞれいろんな意味や方法でおっぱいと接したりしなかったりするようになる.
だが,我々は哺乳類である.
「哺乳類ならおっぱいのことをもっと知るべきである」.
なにしろ本の帯にそう書いてあるのだ!
◆『おっぱいの進化史』の「はじめに」にはこう書かれている.
私たち哺乳類の最大の特徴であるおっぱい(日本語では乳汁と乳房の両方を意味します)の起源については,生物学の上からも解明が待たれる重要なテーマです.(中略)
でもよく考えてみると,現在のような白いおっぱいを出す生物が急に現れたとは思えません.はじめは,分泌の方法も成分も,今とはちがっていたはずです.今日のおっぱいに含まれる成分は,進化の過程のさまざまな段階において獲得されたものだと考えられます.
そう,哺乳類最大の特徴はおっぱいなのだ.
ところでこの本には当たり前だが頻繁に「おっぱい」というワードが登場する.
このエントリー本文でさえ,すでに10回を超えている.
こんなにいっぱい「おっぱい」と書いたのは人生初だ.
そのおっぱいであるが,意味するものはそれぞれ違う.
おっぱいという言葉を聞くと,何をイメージするでしょうか.お母さんが赤ちゃんに与える白い液体である乳汁でしょうか,それともお母さんの乳房.また乳房の先についている乳首でしょうか.どれもこれもおっぱいです.
(中略)本書では「どれ」かはっきりさせないとならない場合をのぞいて,あえて「おっぱい」を使っていきたいと思います.読者のみなさんのおっぱい読解力の見せ所ですね.
「どれもこれもおっぱい」.
そう,『おっぱいの進化史』は我々のおっぱい力を試す本なのである.
至極真面目なおっぱい本
ここまで勢いで書いてしまったけれど,本書は至って真面目な「おっぱい本」.
決してよこしまな目で読んではいけない.
第1章「おっぱいの中には何がある?」,第4章「発酵乳のふしぎ」
第1章「おっぱいの中には何がある?」ではおっぱいのしくみとおっぱいの成分についておさえることが出来る.
おっぱいの主な成分はタンパク質,脂肪,糖.他にもビタミン,ミネラル,免疫をもつ抗体まで含まれる.おっぱいは「完全食品」なのだ(p.17).
◆そのおっぱいが作られるのは乳腺細胞(抗体は乳腺細胞の近くの形質細胞).
おっぱいには他にも乳腺胞,乳腺小葉,乳腺葉や,乳首の先端の乳頭につながる乳管などがある.
おっぱいは,たくさんの乳腺胞から,赤ちゃんが飲むのに十分な量が作られ,おっぱいの中に溜まっていきます.乳頭は赤ちゃんが吸いやすい形になっていて,赤ちゃんの口に刺激されて,おっぱいは外へと出てくるわけです.(p.18)
なお,ウシには「乳腺槽,乳頭槽というタンクの役割をする部分」(p.18)がある.ヒトのおっぱいのつくりのイラスト(p.18,もちろん乳首あり)の隣にはウシのおっぱいのつくりのイラスト(p.19) まで載っている.
◆おっぱいのタンパク質の代表格はカゼイン,ホエー,ラクトフェリンに免疫グロブロン.糖は乳糖にミルクオリゴ糖.どれも聞いたことがあるだろう.
ミルクオリゴ糖についてはわざわざ1節を割いている.
生後間もない赤ちゃんの大腸にビフィズス菌が腸内フローラを形成するにはミルクオリゴ糖の働きが重要なのだ,というプレバイオティクス(プロバイオティクスの働きを助けるもの)といった知識もここで得られる.
乳糖不耐症についても書かれている.
乳糖不耐症は乳糖をブドウ糖とガラクトースに分解する酵素(ラクターゼ)の活性低下によって起きる.
このことは以前何かで読んでいたが,乳糖不耐症にもかかわらず大人になっても牛乳をゴクゴク飲めるヒトがいることについての理由は知らなかった(pp.36-39).
日頃の食習慣は腸内フローラ形成に重要なのだ.
第4章「発酵乳のふしぎ」は乳酸菌について書かれている.ちなみに乳酸菌はヒトの体表面,特に口腔内,食道,腸,膣が主なすみかだ(p.152).
なお,ビオフェルミンのHPには「乳酸菌はプロバイオティクス(腸内細菌のバランスを改善することによって健康によい影響を与える微生物)として注目されている」と書かれているが,「乳酸菌の中にはプロバイオティクスとして働くものもあれば,そうでないものも存在している」(p.140)とのこと.
日頃ヨーグルトをよく食べる方は1章と4章を読み,乳酸菌,ビフィズス菌,ミルクオリゴ糖などの働きを知っておいて損することは絶対ない.
第2章「哺乳類のおっぱい」,第3章「おっぱいで育つ動物の誕生〜哺乳類の進化〜」
◆先ほど,おっぱいの成分はタンパク質,脂肪,糖.他にもビタミン,ミネラル,免疫をもつ抗体と述べた.
でも,おっぱいの成分組成は哺乳類の種によってまちまちだ.
第2章「哺乳類のおっぱい」62ページにはヒト,ウシ,サル,ウマ,ヤギ,ヒツジ,ネコ,イヌ,ブタ,クジラ,アザラシ,ホッキョクグマ,計13種の乳成分組成表が載っている.
これを見ると,哺乳類それぞれの種にとって何を必要とするのか見えてくる.
◎例えば,ヒトのおっぱいは水分88%,固形分12%と飲みやすくできている.
一方,アザラシのおっぱいは水分32.3%,固形分67.7%.
しかも,ヒトの脂肪分が3.5%なのに対しアザラシは53.2%もある(記載されている種で最大).
ゴマフアザラシの授乳期間は3週間ほど.短い間に体重を増やし,冷たい海中での生活に耐えられるよう特に脂肪を蓄える必要があるのだろう.(p.67)
ヒトは霊長類の中で胃腸のサイズが小さく脳が大きいという特徴をもつ.
脳はもっともカロリーを消費する器官だ.
そのエネルギー源は糖質(乳糖).
実際,ヒトのおっぱいの糖質は7.2%と13種中最大かつヒトのおっぱい組成中でも最大である.
ヒトも含め,霊長類は親によって保護されながら成長する.
そのため体の成長よりも脳の成長を優先するのに適したおっぱい組成を進化の過程で獲得したのだろう.
◆哺乳類は大きく3つのグループに分けられる.
イヌやネコやヒトが含まれる有胎盤類,カンガルーなどの有袋類,そしてカモノハシやハリモグラなどの単孔類だ.ただし,単孔類には乳房・乳首はなく,ミルクパッチという穴からおっぱいが出る.カモノハシはまぎれもなく哺乳類なのだ.
これらのうち,2016年時点における最古の有胎盤類の化石は,小さなトガリネズミのような姿をもつ約1億6,000万年前のジュラマイア.すでに乳首のついた乳房からおっぱいをあげていたと考えられている(p.100).ということは,それ以前にすでに乳房と乳首をもった動物が誕生したということに他ならない.
では,おっぱいはどのように進化を遂げたのだろう?
第3章「おっぱいで育つ動物の誕生」の3項「おっぱいの誕生」には「皮膚にあるどのタイプの分泌腺が乳腺へと進化」したのかについての仮説が紹介してある.
ちなみに脇の下や外陰部にあるアポクリン腺というのは聞いたことがあるだろう.
実は脂肪を細胞の外に輸送させる分泌形式(アポクリン分泌)をもつのは乳腺とアポクリン腺だけなのだ(p.34,p.104).
ここから,乳腺はアポクリン腺から進化したという説を紹介している(pp.103-106).
他にも臼歯を除いた歯が乳歯(20本)から永久歯(28本)に生え替わる二歯とおっぱいの関わり(pp.114-115),おっぱいを白く見せているカゼインタンパク質の進化の仮説(pp.116-120)などなど.
筆者は進化について日頃から関心を持ち,類書もいろいろ読んできたけれど,本書はこれまで読んだことがない視点を提供している.このエントリーを書き終えたらもう一度ゆっくり読み返すつもりだ.
おわりに:もっとおっぱいを知ろう
ベゾアール,アルガリ,ムフロン,ウリアル,オーロックス.こう書かれてもなんのことだかわからない方のほうが多いと思われる.
これらはヤギ,ヒツジ,ウシの祖先種.
ヤギの家畜化はベゾアールをもとに約1万年前から始まったという(p.178).
第5章「乳利用の歴史」
第5章「乳利用の歴史」は,乳を食用として利用するきっかけとなったはずの搾乳について,そして古代日本を含む乳利用と乳製品の歴史などについて,ちょっと駆け足だが書かれている.
『本草綱目』に記載されている最高級品の乳製品「醍醐」はバターオイルらしい(pp.190-195)とか,厳しい苦行を6年にもわたって続けて,下山して衰弱し尼連禅川で体を清めていたとこをに乳がゆを作ったのは「スジャータ」という長者の娘であったとか,日本のアイスクリームの誕生は1869年に「あいすくりん」を販売した町田房蔵という人物によるとか.
◆著者の浦島匡(ただす)氏は帯広畜産大学畜産学部畜産衛生学部門教授.哺乳類のおっぱいのミルクオリゴ糖が専門.本書では第1章〜第3章を担当.
「研究以外の視点からも内容を補うため(p.5)」他3名の著者が第4章,第5章,それとコラムをそれぞれ担当している.
一つだけ本書に苦言を呈するならば,巻末にある和文英文の参考文献がどのことを言ってるのか対応させてほしかったことだ.せっかくの文献リストなのにもったいないと思う.
<おわりに>
筆者は正直言って乳製品をあまり口にしないほうだ.チーズは好きなのだが,ヨーグルトは14日間チャレンジに成功したためしがない.牛乳も飲まない.
とはいえ,最近書いたエントリーで述べたように,健康日本21では1日野菜350gのみならず1日牛乳・乳製品130gをも提唱している.
授乳期をすぎた我々がヒトのおっぱいを飲む機会は原則として無い.
でも授乳期が終わればヒトのではなく,たいていウシのおっぱいにお世話になる.毎日お世話になってるヒトは少なくないだろう.
われわれ哺乳類はおっぱいのことをもっと知るべきなのだ.
・・・書店での本との出会いは必然かもしれないとつくづく思う.
本書は「進化史」というタイトルに惹かれ,手にとった一冊だった.
いや,ごまかしてはいけない.
「おっぱい」に惹かれた,と堂々と言おう.私は哺乳類なのだから.
ではまた!